銚子ジオパーク市民の会

日本ジオパーク・ネットワーク正会員  since 2012

 
見どころ案内
20250331
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銚 子 半 島  東(ひがし) 海 岸 エ リ ア  
東海岸エリア:白亜紀地層の銚子層群&日本列島誕生の謎を秘めた黒生・夫婦ケ鼻など
犬吠埼 / 君ヶ浜(ジオの森) 海鹿島・黒生・夫婦ケ鼻  酉明け浦 / 長崎 / 宝満
海鹿島層
礫岩・砂岩
1億3千万年前: バレミアン期

年代推定:アンモナイト化石
君ケ浜層
砂泥互層・泥岩
1億2500万年前:バレミアン期年代
推定:アンモナイト・有孔虫
 犬吠埼層  
砂岩
1億2000万年前:アプチアン前期
 年代推定:アンモナイト化石
  酉明浦層 
砂岩泥岩互層
1億1500万年前:アプチアン後期
 年代推定:アンモナイト・有孔虫 
 長崎鼻層
砂岩
1億年前アルビアン期 
年代推定:砂岩のでき方より   



犬吠埼は2つの白亜に出会える岬 

銚子ジオパークビジターセンターへようこそ
(犬吠埼テラステラス1階:駐車場側入口)
     
↑犬吠埼テラステラス☚詳細クリック ☚ 犬吠埼テラステラスの 一角にある 「銚子ジオパークビジターセンター 」
10:00~16:00 の間は係員が常駐しています。お気軽に声をかけください。



海成段丘と灯台のイメージ図






 日本列島は逆くの字 
~~~~~~~~~~~~~~



写真①:犬吠埼の初日の出

  海鹿島のアシカの図  

赤松宗旦著
利根川図志巻六の図より
埼玉県立図書館所蔵

明治期まで海鹿島・犬吠周辺には
アシカが生息していました。
アシカの鳴き声や仕草が
犬に似ていたと言います



江戸時代の観光案内圖
 
銚子濱磯巡りの圖

赤松「宗旦著:利根川図志巻六より
埼玉県立図書館所蔵
上図をクリックすると拡大図が見れます



白亜の灯台:昨年150年を迎えました


写真③灯台レンズ室内からのレンズ磨き


写真④:現在使用中の光源(赤帯球は予備球)
メタルハライド電球400W


写真⑤電気以前の石油光源点燈実験
(霧笛舎内)


霧笛舎


写真8:国指定犬吠埼白亜紀浅海堆積物碑
柵の前の池は銚子石採石跡(馬糞池)


写真⑨:犬吠埼産出のアンモナイト
千葉県指定天然記念物



写真⑩:砂岩泥岩互層
鬼の洗濯岩と言われる



写真⑪:ストーム性堆積構造



写真⑫:蓮根(画像左側にみられます)



写真⑬蜂の巣状風化
 


写真⑭:生痕化石



写真⑮:犬吠埼のノジュール



写真⑯:イソギク



写真⑰:竹久夢二詩碑



マツヨイグサ

  一つ目の白亜➤ 白亜の犬吠埼灯台       
白亜の灯台は白亜紀地層の上の海成段丘面に立っています
左図は灯台と海成段丘のイメージ図です
犬吠埼の台地は海成段丘です。段丘面は8万前年頃まで海の底でした。
7-6 万年前頃をピークに海面が低下し犬吠埼は陸となりました。
その後隆起し現在のような標高が約25mの段丘面となりました。
日本一早い初日の出
銚子は太平洋に突き出た東端の地ですが北海道の納沙布岬には及びません。
ですが、銚子半島の東海岸は離島や山を除くと、「日本一早い初日の出」を見ることができる場所です。
なぜでしょう:地軸が約23.4度傾いていることによります(左図)
年末年始のこの時期は銚子が一番早い日の出になります。
犬吠埼や君ケ浜、地球が丸く見える展望館は大勢の人々で賑います
銚子ジオパークは日本列島の扇の要に位置します
 ~不思議いっぱいが魅力いっぱいの銚子です~
銚子ジオパークは逆”く”の字の日本列島の尖がりに位置します。
大陸の縁が割れ2本の陸地が観音開き状に開き、日本海ができ日本列島ができたと言われます。それらの謎を解く鍵が銚子に隠れているかも知れません。
海流が人・物・文化を運びました
銚子沖は黒潮と親潮がぶつかり合い、流れを東に変える場所です。 銚子沖から三陸沖まで海域は栄養源豊富な好漁場になっています。
銚子は水揚げ量、連続一位を13年間続けられた要因の一つです。昨年度は一位の座を釧路に譲っています。黒潮の蛇行も一因でしょうか?
 ◇  銚子は西南の紀州や東北の小名浜・気仙沼などと繋がりが深く、漁業だけでなく文化的にも影響を与えあっています。
 ◇   伊能忠敬の銚子測量(1801年):扇の要の銚子からの富士山の方位測量は重要な意味を持っていました。(当時の測量方法においては)
忠敬の測量日記からも東北沿岸と、紀州などとの繋がりの深さが窺える記述が多くあります。 HP管理人 
犬吠埼の地名由来
義経伝説
銚子市内には多くの義経伝説が残っています
伝説によると義経一行は銚子の犬若から船出しました。その際、愛犬若丸を置き去りにしました。若丸は7日7晩泣き続け8日目の朝、大きな「犬岩」になったといわれています。その泣き声が犬吠埼まで聞こえたことから「犬吠」と云われています。
アシカの泣き声説
当時、息していたアシカの鳴き声や様子が犬によく似ていたから。
 赤松宗旦の利根川図志巻6の海鹿島の記述にも「数百のあしかが重なり合い、上になり下になりくるい遊ぶさま犬の子の乳を争うが如し」とある。
アイヌ語説 
アイヌ語で「海難事故が多いところ」の意味から。
地名研究家の説
地名研究家の説犬吠埼の地名由来は「オニ」が「イヌ」に、「ホウ」が「ボウ」に訛ったもの。「鬼:オニ」は険しく猛々しい意味。「ホウ ボウ」は「ほうける」とか「ぼぼける」の意味の「崩」で、崩壊地形をあらわします。険しく崩れやすい断崖絶壁という意味の「鬼崩 オニホウ」が「犬崩 イヌホウ⇒イヌボウ」になり、犬は吠えるので「犬吠」と表記して誕生したと。犬若の地名「イヌワカ」は「オニワカ」の転訛したもの「ワカ」は「崩:ホケ ハケ ワケ」が訛った。
 犬吠埼周辺の海域は昔から海難事故が多かった
大型船の海難事故例 
金源盛号 唐船(船長26間、乗員88人)犬吠埼沖で遭難。
美香保丸(慶應4年8月榎本武揚率いる8軍艦船の一つ)黒生沖遭難。
13名死亡。
③  神龍丸1868年9月榎本討伐後の帰路、黒生沖で難破遭難。
乗り組員の龍野藩士専八は静養先の吉野家で淡路まんと知り合い生まれたのが国木田独歩です。
 
崎 と 埼
地名では「崎」が多く灯台は「埼」が一般的です。
灯台は海軍水路部が「埼」を採用したことによります。旧陸軍の流れをくむ国土地理院は「崎」を採用したので地名は「崎』が多い。因みに伊能図では「犬吠崎」と書かれています。同時代に書かれた史料には犬吠崎、犬吠岬と並んで石切の鼻などと記されています。筆者も意識して見てきましたが灯台建設以前に書かれた史料に犬吠「埼」と書かれたものを見ていません。
(今は灯台名も地名も「埼」で統一されています)。
伊能図を参考にした明治初期の陸軍による迅速測図では地名は伊能図と同し犬吠「崎」になっています。
旧海軍水路部は海洋に突出した陸地の突端部を示す「埼」を採用しました。
灯台名や海図では例外があるものの「埼」なっています。
戦後、国土地理院は旧陸軍測量部を海上保安庁水路部は旧海軍水路部を継承しました。
参考:昭和35年に海上保安庁水路部と国土地理院が地名等の統一に関する連絡協議会をもったが双方とも譲らず現在に至る(今はどちらも国土交通省)
HP管理人の推測:銚子の場合、犬吠埼灯台の存在が大きく、地名もいつの間にか「埼」になったと思われます。灯台建設以前は地名として「崎」が使われていますが灯台建設以前に「埼」が使われた資料は見ていません。「埼」の使用例がありましたらご連絡下さい。
銚子は江渡時代からの観光名所
香取・鹿島神宮、息栖神社の3社詣で&銚子磯めぐり
幕末から明治・大正・昭和初期までは:利根川の水運利用した香取・鹿島・息栖の3社詣で、そして足を延ばして銚子磯巡り観光するのが定番でした。
磯巡りのコース:飯沼観音発➤和田不動➤千人塚➤夫婦ケ鼻➤黒生➤海鹿島➤君ガ浜➤犬吠➤長崎➤外川浦➤屏風ケ浦➤飯沼観音着。
松岸や本城には遊郭があり、今宮には芝居小屋がありました。

犬吠埼の今昔
昔、犬吠﨑は石切り場として知られた観光名所でした。今は銚子で最もメジャーな観光地として1年を通して賑わっています。特に年末年始は 日本一早い初日の出 を見る人々で埋め尽くされます。
5月ごろからは磯遊びなど家族ずれの観光客でにぎあいます。また、銚子ジオパークに指定されて13年目を迎え、これを目的としたお客さまも増えています。
犬吠埼灯台 
国の登録文化財、近代産業遺産
犬吠埼灯台は幕府の江戸条約や大坂条約での灯台ではありませんが米国の捕鯨漁船への便宜を図るため米国の要求に配慮して建設されたと推測されます。
明治政府の招聘で来日したイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督のもと明治5年着工、明治7年11月15日完成しました。
犬吠埼灯台は全国に5基ある一等灯台一つ
犬吠埼灯台(銚子)、経ヶ岬灯台(京丹後)、室戸岬灯台(室戸)
出雲日御碕灯台(出雲)、角島灯台(下関)の5灯台です。
 
犬吠埼灯台の高さ:地上から頂部まで、31m、平均水面から投火まで52m 光達距離:19.5 海里(約35 km)、15秒に1回閃光を放す。
犬吠埼灯台は二重円筒の構造で国産煉瓦19万3千枚を使用し、99段の螺旋階段があり、さらに梯子をのぼるとバルコニーに出れます。
レンズの大きさは:一番大きい一等灯台のレンズです。
写真②レンズは建設当初のフランス製8面閃光レンズ。
現在は国産一等4面レンズ、総重量は13tもあります。

灯台資料館:国産初の一等レンズ(直径3.03m)があり大きさに圧倒されます
 ◇ 光源の強さ:110万カンデラ、(1カンデラは1燭とほぼ同じ)写真④
光達距離:19、5海里(約35km)、15秒に1回閃光を放ちます。
光源は当初、石油を使用(写真⑤)。
大正12年より電気になり、現在はメタハライド電球400wを使用している。
最近はLEDに変わりつつあります。
 
  霧笛舎
国の登録文化財、近代産業遺産
この海域は霧が発生しやすい場所です。
灯台の位置を霧笛で知らせるため、霧笛舎が作られました。
1910年に竣工した鉄造建物で創業間もない八幡製鉄所(現・新日本製鉄)製の鋼板を使用しました。 国産初の鋼板を使用した現存最古の建造物です。
灯台と共に国の登録文化財、近代産業遺産になっています。霧笛舎は平成20年(20083月に運用を終了しました。 
荒磯の波 
東映オープニングのシーン画像:「荒磯の波」ご存じですか
Q:撮影場所を探して見てください。

画像はイメージです
A:この画像は灯台向かって右側の台地から撮ったものです。
実際に使用された画像は台地の下の磯から撮ったものです。

崖下の礒には危険防止のため立ち入りできません。

Q:このデザインに見覚えありますか
包装紙「華ひらく」 


A:三越の包装紙。デザインを手がけたのは、猪熊弦一郎画伯。
  デザインは犬吠埼散策中、海岸で波に洗われる石を見て、
「波にも負けずに頑固で強く」をテーマに考えたという 。
 包装紙のデザインを依頼し作品を受け取つたのは
当時、三越宣伝部の社員
アンパンマンの作者:やなせたかし さんです。

銚子石 
銚子石は恐竜時代に堆積した砂岩です。 犬吠埼灯台は:白亜紀の地層の上に白亜の灯台が建ってます(2つの白亜)
江戸時代、銚子石は舟運で運ばれ粗研ぎ砥石(海上砥)と呼ばれ、
紀州石と並んで大きなシェアを誇りました。
砥石以外の用途:
軟らかい岩質なので加工が容易、地元周辺では石垣、土台、石畳、石壁、石蔵、敷石、石仏や鳥居など多くに利用されてきました
ハチの巣状風化(写真⑬):銚子石は風化に弱く、蜂の巣状に発達した無数の穴が特徴です。 塩分による風化作用でボロボロになった銚子石を市内で見かけます。
江戸時代、犬吠埼は石切場として有名で「石切の鼻」と呼ばれていました。
馬糞池
灯台下の馬糞池は犬吠埼の石切場跡です。写真8
伝説では「義経一行の馬が脱糞した場所」とされていますが、石材運搬の馬を係留したから付いた名前でしょうか(管理人の推測)
 SDGsの先駆け?
   犬吠埼の採石事業を中止したのは川村市長(1940年ごろ)。観光の象徴でもある犬吠埼が採石により破壊されることを危惧した市長が業者に採石を中止させました(現在は石切は行われていません) 
  二つ目の白亜➤犬吠埼は白亜紀地層     
犬吠埼の浅海堆積物は国指定天然記念物
国の天然記念物の碑 (写真⑧)
 
犬吠埼の灯台下の海岸は1億2千万年前の恐竜が住んでいた時代(白亜紀前期)の地層です。もしかしたら恐竜の化石を発見できるかもしれません。
この時代は地球内部の活動が活発であった時代で、現在より温暖で海水準が上昇していたと云われています
犬吠埼の浅い海での堆積物は国の天然記念物に指定されています。
アンモナイト、トリゴニア、コハク、シダ、ソテツ、花粉などの化石や生痕化石が見つかっています。(平成14年3月19日、国の天然記念物に指定されました)写真⑨
砂岩泥岩互層 
 鬼の洗濯岩:洗濯板のような地層がみられます。厚く白い所は砂が固まった砂岩。薄く黒ぽい層が泥岩層です。砂岩泥岩互層といい中生代白亜紀前期の銚子層群の堆積構造の一つです。写真⑩
平常時は主に陸からの泥が、嵐のさいは砂がもたらされます。結果、互層ができます。浅い所では砂の方が厚く、深い所では泥が厚く堆積します。結果、堆積した水深により砂岩と泥岩の厚さが違います。
泥岩層は砂岩層に比して浸食されやすいので凹状になります。
砂岩層と泥岩層の厚さの違いが岬や浦をつくります。
   
ストーム性堆積構造 
暴風時の海面で発生する波が海底面に作用し写真のように当時の海底の様子を現在に残しています。写真⑪
   
蓮根(れんこん) 
水流による砂の移動痕の上に泥が堆積し保存されたもので蓮根(リップルマーク)とよばれます(写真⑫).犬吠埼で観察されるものは、嵐が徐々に治まる過程で、砂の上にできたものだと考えれています。
   
蜂の巣状風化 
 風化作用で岩石の表面が蜂の巣のように穴があくこと。犬吠灯台下の海岸には多数の蜂の巣状風化がみられます。 写真⑬
   
生痕化石
生痕化石(せいこんかせき)とは、生物そのものではなく、生物の生活の証拠の痕跡が地層中に残されたもの言います。足跡や這い跡、せん孔、食事の跡、うんこなどの排泄物の化石などです。
犬吠埼灯台下には生物の活動を留めた生痕化石が多くあります 。
エビやカニの仲間の巣やゴカイの這い回り跡があります。当時ここが浅い海であったことの証拠です。
   
ノジュール 
 写真⑭画像で丸くいくつも並んだ塊がノジュール(nodule)です( 小さな塊の意)。堆積岩中の珪酸や炭酸塩が化石 や砂粒を核として化学的な凝集を受けて形成された塊です。まわりの母岩より固く、球状になる場合が多く、割ると化石が入っていることがあります。
   
崖地海岸植物 海岸植物を見る
海岸は風が強い、崖地は土壌も少なく植物にとって厳しい条件です。そんな環境に適応した植物が生育しています。イソギク(写真⑯)やハチジョウススキなど黒潮により分布域を広げた植物もあります。黒潮の日本の最終地点は銚子です。イソギク・ハチジョウススキなどは北限植物といわれています。
    
犬吠埼・海鹿島周辺の文学碑
犬吠埼・海鹿島周辺 には、明治・大正・昭和初期を通じて、多くの文化人が 銚子を訪れました。その一端を文学碑に見ることができます。
 若山牧水の歌碑  碑は犬吠埼灯台下にある馬糞池の奥の崖に黒御影の碑板を嵌め込み作られています。銚子訪問時の歌3首を刻でいます。 
 高浜虚子句碑  碑は犬吠埼マリンパーク前の長崎鼻を望む高台の景勝地に建っています。 
 尾張穂草歌碑  岩山牧水碑は犬吠埼マリンパーク近くの高台の中腹にあります。 
 佐藤春夫詩碑  碑は犬吠埼マリンパーク近く若山牧水碑の上にあり、大きな自然石に石板が嵌め込んであります。 
  涙痕の碑  碑は1917年避暑に訪れた君ヶ浜で遊泳中に大波に襲われ溺死した青年詩人の遺族により建てられました。  
 小川芋銭句碑  画家・小川芋銭の句碑は海鹿島海岸の岩山の中腹に直接刻まれています。句は今上天皇の誕生を祝うものです。  
 国木田独歩碑  国木田独歩の詩碑は、海鹿島住宅地近くの巨大な海鹿島礫岩の自然石に、『山林に自由存す』の碑板を嵌め込んでいます。 
 竹久夢二碑
  写真⑰
 
海鹿島住宅地近く、コンクリートに青銅製碑板を嵌め込んだ碑がある。碑面には夢二の『宵待草』の原詩と肖像があります。 海鹿島~君ヶ浜にかけての砂地には、夏になれば夕闇のに可憐なマツヨイグサが明かりを灯したように咲きます。(左の写真)  
  尾崎咢堂碑  憲政の神様・尾崎萼堂の歌碑は海鹿島の林の中にあります。
犬吠埼の瑞鶴荘(旧伏見宮別邸)で詠んだ歌が、短冊を基にして刻まれています。
 
 
  美香保丸
  遭難碑
碑は遭難場所に近い黒生海岸にあります。
美香保丸は榎本武揚率いる旧幕府脱走艦八艘の内の一艘です。
函館に向け1868年10月5日に品川沖を出港するも嵐により黒生海岸へ漂着・座礁・沈没し13人が亡くなりました。
 
 


 君ケ浜(後背の砂丘は銚子ジオパークの森) 





君ケ浜海岸から
犬吠埼灯台を望む




犬吠埼灯台から見た「君ヶ浜海岸」
後背の国有林が
「銚子ジオパークの森」に
命名されました。




銚子ジオパークの森」
協定書締結式
     
 君ケ浜の地層、地名由来
君ヶ浜地層
君ケ浜の地層は:中生代白亜紀前期の銚子層群君ケ浜層に属すします。主に砂岩と泥岩の互層から成り、泥岩層の厚い君ケ浜は浦を形成し砂岩層の厚い犬吠埼は岬を形成しています。君ヶ浜の後背には風により砂が運ばれてできた砂丘(高い所で20m)があり松などの林になっています。
犬吠埼を望む絶好のロケーションであることから映画撮影などに利用されてきましたが最近は屏風ケ浦周辺が多いようです。  
ここからは琥珀やシダなどの植物化石やアンモナイトやトリゴニアなどの動物化石が出土しています。 
犬吠埼では崖地植物、君ケ浜は海浜植物が観察できます。 
君ケ浜は「霧ガ濱」 
銚子沖は黒潮と親潮の混合する場所の南端に当たり、 東南の風により夏季に海霧が発生しやすいところです。 江戸時代に書かれた赤松宗旦の利根川図志には「キリガハマ」と書かれています。
銚子には義経伝説があり、犬吠、犬岩、宝満等も伝説で語られています。
君ケ浜の「君」は源義経を指しているといわれています。
 
関東舞子 
◇  君ケ浜とその後背の砂丘の松林は白砂青松で知られる神戸市の舞子浜になぞらえて 「関東舞子」と云われていました。しかし、この松林も松枯れなどが進みタブの木などに移行し極相林化が進んでいます。昔ながらの松葉林を取り戻すのは大変な状況です。 
 
銚子ジオパークの森  協定書締結式 
去る令和元年7月3日 (水曜日):林野庁 関東森林管理局千葉森林管理事務所は銚子ジオパーク推進協議会(会長:銚子市長 越川 信一氏)と、銚子ジオパークの保全・教育活動の対象となる「ジオサイト」の一つ「君ヶ浜国有林」を市民や観光客に親しまれる森林となるよう、定期的に美化活動を行って景観や環境を保全し、教育のフィールドとして特有の地形や植生から地域の自然歴史及び文化を学ぶ等の活動の場とするため協定締結式を実施しました。 
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津波の記憶 
1677年の延宝の地震による津波は君ヶ浜の松林をのり越えて「高神村大池」(現在の小畑池)まで浪上り松1万本余が折れたと「玄蕃先代集」に書かれています。因みに津波の高さは17m以上と推定されています。この地震は揺れの大きさに比して大きな津波がくる「津波地震」であったと考えられています。
    



海鹿島・黒生・夫婦ケ鼻
あしかじま     くろはい    め ど が は な 


写真①:海鹿島礫岩の巨大なブロックに
嵌め込まれた、国木田独歩の碑
巨大な礫岩の左側、色の異なる四角部分が碑
手前弓なり海岸が海水浴場
日本初の海水浴場か


双鴎翁、逸山潜とは誰?
御存じの方連絡下さい:管理人

 写真②:トンビ岩














美香保遭難碑



写真③:トンビ岩の礫岩中に見られる
チャート、色も様々




今の:夫婦ケ鼻



目戸ケ鼻(夫婦ケ鼻)絵図
円福寺所蔵絵図(江戸時代中期)
埋め立て以前の素晴らしい景色



ポートタワー



銚子無線電信局発祥の地の碑
(夫婦ケ鼻:現ポートタワー駐車場)
                                                                    
        
 「海鹿島」の地名由来
「海鹿島」の地名はこの地に生息していた「アシカ」に由来します。幕末に書かれた赤松宗旦の利根川図志によれば、数百匹のアシカが年中いて、頭は小さく子が乳を飲む姿はまるで犬の様だと書いています。鉄砲が普及すると毛皮や肉を求めて狩猟が行われ数を減らし保護されるもついには絶滅しました。
 海鹿島の地層(海鹿島チャート礫)
海 鹿島層は銚子層群最下部に属し黒生(くろはい)町から海鹿島町にかけて見られおよそ1億3千年前の地層で、海鹿島礫岩として産出します。多くはチャート礫です。礫は海鹿島の海岸のみならず海鹿島町の台地や小畑町までの広範囲でみられます。
 海鹿島海岸の北部は多くの岩礁からなり、弓なりの南部は岩礁はあるものの砂浜があり海水浴場になっています。海鹿島海水浴場は古くからの海水浴場で( 日本初の海水浴場ともいわれています)。比較的静かで穏やかで、磯遊びもできるので子供連れの家族に適しています。
 海鹿島の台地は別荘地として開発されました。
 田中玄蕃による築港跡
 江戸期に、銚子の豪商田中玄蕃が水路や防波堤を築き港をつくりましたが津波で破壊された。後に、子孫により再建しましたが、現在は港跡をやっと確認できる程度です。   
 火山の痕跡(銚子半島の東海岸)
 
写真④:漁港内の溶岩が固まってできた
Mgを多く含む安山岩
 黒生漁港近くに存在する黒っぽい岩(左写真)は、日本海が形成されるころ(約2,000 万年前)の溶岩が固まってできた岩です。一般に日本で見ることができる安山岩よりマグネシウムを多く含む安山岩で、当時この周辺に火山があり噴出したものです。板のような割れ目「板状節理」が見られます。写真④
とんび岩
◇  江戸時代からの観光名所で海鹿島礫岩で出来ています。赤松宗旦の利根川図志「銚子磯巡り」や江戸時代の絵図(写真②)で紹介されています。 
美香保丸遭難碑慰霊碑
 美香保丸は榎本武揚率いる旧幕府脱走艦八艘の内の一艘です。兵と軍需物資を搭載して函館に向け1868年10月5日に品川沖を出港しました。開陽丸の曳航を受けていましたが、直後の6日、嵐により曳航索を切断しマストも折れて航行不能となりました。11日に黒生海岸へ漂着・座礁・沈没し13人が亡くなりました。後に黒生海岸に地元民により遭難の碑が建立されました。    
黒生(くろはい)の瓦
 黒生海岸には、愛宕山や犬岩と同じ2億年前ごろの頁岩露頭がありました。頁岩は破砕・地下水の浸透・風化により黒色粘土化しており、江戸期にはこれを焼いて黒生瓦を生産していました。三河地方と並び称されるような瓦生産地となりましたが現在は資源が枯渇しており、黒生瓦は生産されていません。  
 黒生チャート (硬い石)
 
写真⑤:黒生漁港近くに露出する黒生チャートの岩体
 チャートは、4千m以上の深い海底で堆積した放散虫の骨格などから成る二酸化珪(SiO2)を主成分とする堆積岩です。チャートは非常に硬く、かつて火打ち石として利用されていました。
黒生チャートの岩体はかつて10個ほど存在したとされますが水産加工団地の造成工事関わる埋立で多くが姿を消しました。写真⑤は唯一観察できるものです。
  夫婦ケ鼻( 日本海が形成された頃のひみつ)
 銚子ポートタワーの麓にある崖(左写真)が夫婦ケ鼻です。崖の地層には海でつくられたシルト層です。1690万年~1650万年前に深い海底(100m~数百m)に堆積したもので、夫婦ケ鼻層と呼ばれています。
これと同じ地層は鹿島灘沖の海底深く(深さは700m~1100m)で確認されています。そのことからも銚子が如何に隆起してきたかがわかります。
夫婦が鼻の昔 
 昔、この地は「目途が鼻」と呼ばれ、円福寺所蔵絵図(左の図)に見られるように、とても美しい景観で知られていました。日の出や月待ちの場所で老若男女が集まる所として知られていました(利根川図志)。今は目途ケ鼻周辺は埋め立てられ水産加工団地になっていて面影は全くありません。
 かつては図のように南側に約1.5kmにわたってこの地層の崖が続いていましたが、今は銚子ポートタワーの麓にわずかに残るだけになってしまいました。
  銚子ポートタワー 
 「銚子ポートタワー」は、総ガラス張りのツインタワー構造の展望施設で、銚子市川口町に建つ千葉県水産業振興のランドマークタワーになっています。
 県の「ふるさと千葉5ヶ年計画」の一環として建てられたもので、平成3年6月23日にオープンしました。 展望室から雄大な太平洋の大海原や、太平洋に流れ込む大河利根の川河口や日本一の水揚げ量を誇る銚子漁港などを眼下にすることができます。
  ウオッセ21
 ポートタワーに隣接する施設で、「見る、買う、食べる」がまとめて楽しめる「お魚ランド」の施設です。 海に囲まれた銚子は魚と絶景の宝庫です。
水産物即売所(おみやげ):銚子港に水揚げされた魚介類を中心に、新鮮な海の幸を豊富に取り揃える直売センター。
食事處:港から仕入れた新鮮な魚を趣向を凝らして調理します。その美味しさとボリュームにビックリ!です。「定番料理」から、「創作料理」まで 
  銚子無線電信局発祥の地
 銚子無線電信局は1908年(明治41年)に銚子市夫婦鼻(ポートタワー付近)に開局し、1929年(昭和4年)に銚子市小畑新町に受信所を設置しました。1939年(昭和14年) に送信所を銚子市野尻町に移転し、その後、閉所まで椎柴送信所と小畑受信所の2拠点で存続しました。
 戦前から戦中にかけては、客船、貨物船、移民船など日本や外国の大型船舶、日本の委任統治領であった南洋群島などとの通信拠点として、戦時中には太平洋全域からの日本軍の戦況を伝える拠点として使われました。
 戦後は、日本や外国の客船、貨物船、移民船、遠洋漁業漁船団、捕鯨船団などとの交信を行い、1960年代には年間130万通を扱う世界一の無線電信局として知られました。
その後、衛星電話等の普及により、NTTは廃所を計画。1995年(平成7年)、存続を求めて裁判を起こしましたが1996年3月廃所となりました。後に最高裁で敗訴が確定しました。

吉田初三郎:銚子鳥瞰図の夫婦ケ鼻周辺部分に加筆
円内には銚子無線電信局のアンテナが描かれている。
昭和14年以前の様子と思われる。
現在はこの台地には銚子ポートタワーが建っている。



酉明け浦・長崎鼻・宝 満
とりあけうら  ながさきはな ほうまん

写真①:宝満(2000万年前の溶岩島)
防潮てを肥えて磯に


写真②:日和山より長崎鼻を望む
遠くに見えるのは:長崎鼻一ノ島照射灯台


写真③:日和山の長九郎稲荷


写真④:ガス抜けあとの残る安産岩


写真⑤タービタイト性砂岩泥岩互層
長崎エリアは 
酉明け浦、長崎鼻、宝満です
銚子半島最南端に位置し、 ほぼ東端でもあります。
小島である宝満の前の海岸は遠浅で海の生き物が多く、比較的安全であることから、親子ずれの磯遊びには絶好の場所になります。左の写真① 
長崎海岸の防潮堤
長崎町の集落を守るように道路の海側に防潮堤があります。
防潮堤の上の白い部分は先の3.11津波被害を受けてかさ上げされた部分です。
これで百数十年に一度クラスの津波は大丈夫と云われていますが?  
宝満前などの磯に行くには防潮堤を乗り越えます(階段が用意されています)。 道路や住宅からの海への視界はほぼゼロになりました(HP管理人)
犬吠層、酉明ケ浦層、長崎鼻層
犬吠埼と長崎鼻の間の海岸を酉明浦といい1億1500万年前ごろの酉明浦層です。泥岩の割合が多く侵食されやすく弓なりの海岸になっています。
長崎鼻層は砂岩と泥岩が繰り返す砂泥互層の地層で、通常は泥が堆積するような深い海底に、地震などを引金にして海底斜面に堆積していた土砂が流れ下って堆積した地層です。このような地層をタ―ビタイトと呼びます。左の写真⑤
宝満 
 宝満は大宝満と小宝満からなり長崎海岸の東側に位置する小島で、約2000万年前に溶岩が固まってできた千葉県唯一の現地性噴火の火山島です。この島は日本海が開き始める頃の2千万年前に噴火した溶岩が固まってできた島です。この島の安山岩に含まれる鉄とマグネシウムの比(Mg/Fe)が高く、黒生海岸の高マグネシウム安山岩と同様、日本海形成のひみつを秘めています。
宝満前の長崎海岸にはガス抜けのあとを示す無数の穴の開いた安山岩が転石として多くあります。
左の写真④
 
名洗層下部の地層
この地層はおよそ500万年前の地層です。 クジラやサメの化石がたくさん見つかっています。干潮時にわずかに顔をだすこの地層はここが海だった時代に堆積したものです。ここからは白亜紀の化石を含んだ固い石(ノジュール)、サメの歯、クジラの骨、象の臼歯など数多くの化石が発見されます。
特にクジラの耳骨やサメの歯の化石の数は多く、かつて水の流れによってレキといっしょに耳骨やサメの歯が集まって堆積するような環境であったと推測されています。
近年の長崎鼻のクジラの耳骨の研究から、種類の多様性が世界有数だということがわかってきました。 鯨類化石の日本最大の産出地と言われています。
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   銚子ジオパーク市民の会