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外川千軒大繁盛 |
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◇市街から南東に約5km、銚子半島の南端の傾斜地に位置する外川は、昔イワシ漁で大変栄えた漁師町です。外川千軒大繁盛と云われたほどです。銚子漁業発祥の地と云われています。(明治中期頃からは漁業の中心は利根川河口に移りました)
◇街並みは碁盤目のように町割がされ、昔ながらの風情を今なお多く残しています。
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◇鉄道ファンに人気の銚電(銚子電気鉄道)は大正2年(1913)銚子遊覧鉄道として(銚子駅~犬吠)間を営業開始しました。大正12年(1923)7月には今とおなじ(銚子-外川)間を営業課運転しました。現在の駅舎(写真)は当時のものです。大正14年7月電化・電車運転開始を開始しました。昭和23年8月銚子電気鉄道株式会社(現)に社名変更しました。
◇営業㎞程 銚子-外川間 6.4㎞。駅数9駅(銚子駅除く)内 。職員数 24名
車両数 電気機関車1両 制御電動客車 :6両(定員:1両平均98人)
運転本数 (19往復) 運転速度 最高40㎞/h 所要時間 銚子-外川間 約20分
◇銚子電鉄が新たな増収策として始めた駅名愛称ネーミングライツ(命名権)販売で、外川駅の愛称は「ありがとう」駅に決まりました。ありがとうございました(写真②)。 |
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崎山治郎右衛門の作った外川の町並み |
◇外川の町並みや外川漁港は1658年紀州和歌山から移住した崎山治郎右衛門によって作られました。300年以上前、碁盤の目状の市街地を計画的につくりました。海(港)へと通じる見通しのきく縦の坂道(南北方向)と等高線状(ひな壇)に東西に区切られた横道からなります。写真①
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◇なぜ、彼は外川を選んだのでしょうか。江戸時代から綿花が徐々に栽培されるようになります。綿花栽培には肥料が欠かせません。化学肥料がない時代、肥料は人糞などが主でした。そんな時代、鰯が注目を集めました。紀州人は黒潮に乗って鰯を求めて九十九里まで来ていました。銚子の外川は良い漁場であり、故郷に似た景観が彼の頭に浮かび,外川の開発イメージまで想像できたのかも知れません。しかも当時の銚子は利根川の水運により需要地江戸とつながっていました。こんな素晴らしい場所は他にないと。(筆者の妄想)
◇20年後には関東随一の漁港になり外川千軒大繁盛と云われるまでになりました。
鰯は腐りやすい魚です。冷蔵庫のない時代、鰯は干鰯(鰯の干したもの)や煮て絞った粕、魚油、水まで肥料として使われました。江戸深川には銚子場がありました。
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外川の町街歩き |
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◇外川を初めて訪れる方は『外川ミニ郷土資料館』を尋ねては如何でしょうか。写真⑤
地元住民をはじめ、多くの観光客に愛される資料館には、外川を知り尽くした“案内人”館長がいます。町歩きの前に予備知識を得てから散策するのがベターです。坂道マップも用意されています。 |
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◇外川の町並みは地形を巧みに利用しています。南に開けた斜面に東西に道を作り、家を雛壇状に並べて建てるているので、どの家からも、またどの道からも港が見えます。写真⑥
◇横道は生活道ですが縦道は港に水揚げされた鰯を干鰯場に運ぶための産業道路です。
◇長崎寄りの地層は銚子の東海岸と同じ白亜紀地層(銚子層群)で、西側は愛宕山層群でその南斜面が市街地になっています。傾斜地の上部の平坦地(段丘面)には干鰯場や耕作地がありました。図②
◇生活道である横道は縦道より、一段高くし水はけをよくしています。
生活に必要な水は斜面の裾の水を通す地層と水を透さないに地層の境あたりに井戸を設けて水を得ています。300年以上前に碁盤目状の市街地が計画的に作られました。
◇外川の街並みは、坂道と瓦屋根に特徴。
海を見下ろす、8本の南北にのびる坂道には名前が付けられています(写真⑦)。
王路(おうみち)、阿波通り(あんば)、長屋通り(ながや)、新浦通り(しんうら)、一条通り(いちじょう)、一心通り(いっしん)、本浦通り(もとうら)、条坊通り(じょうぼう)です。
生活感あふれる横道も興味が持てます。路地裏の風景にも面白さを発見できるでしょう。
外川の街歩きの魅力は坂道(昇降時の目線の違い)の景色だったり、風情だったり、地元の人との会話だったり様々です。あなただけの外川の魅力を見つけて下さい。 |
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◇ 2011年:3、11の東日本大震災の際の津波到達点の表示場所があります(写真8)。外川では幸いに人的被害はありませんでした。港内の漁船は津波を察知して外洋に逃れて大きな被害を受けませんでした。隣の汐見町の加工工場地帯では一階部分に津波が襲い被害を受けてます。マリーナのヨットは多くが無残な姿を残していました。
◇銚子は過去にも津波の被害の記録が残っています。
渡海神社は今の大杉神社にあったとされています。976(貞元元年)に津波をさけ、
標高11mから36mの今の位置に移っています。 |
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崎山治郎右衛門の外川漁港 |
◇紀州(和歌山県)広村から移住した崎山治郎右衛門は外川漁港を築港し、町並みをつくり、漁法を伝えました。寛永年間(1624~1644)、故郷から140人もの漁師を呼び寄せ港建設に尽力します。明暦2年(1656)着工し、万治元年(1658年)漁港が完成しました(図①)。
この崎山治郎右衛門の作った港は大正11年の全面改築まで活用されました。
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◇築港のための石材は近くで採掘できる安山岩(長崎)や砂岩(波止山の砂岩)が使用されました。それらを移動には青竹を敷き、その上に海藻であるカジメ敷き、その上に切り出した石のせ移動しました。現場の海上までは筏にのせ運びました。
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◇図②で分かるように堤防の一部に潮吹きと呼ばれる隙間が設けられています。これにより港内に堆積する砂を少なくする工夫と云われています。
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◇現在の外川漁港は「銚子つりきんめ」が主役です(写真⑩)。
千葉県のブランド水産品に認定されています。
漁場は南南東約50km、水深300~400m。資源管理型の漁業をしています。
釣り時間の制限、網は禁止、道具制限(1本60本の釣り針)など。.
40隻を5班に分け、ポイントをローテーションします。
班内もローテイションし公平に操業しています。
銚子は周年操業ですが正月、盆、しけなどあり日曜祭日は休むので若い連中はデートもできる。外川は若い漁師が多いことでも全国的に珍しいです。 |
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◇銚子電鉄外川駅から徒歩7分、あんば通りを降った外川港近くに大杉神社はあります写真⑪。総社は茨城県稲敷市にある大杉神社です。境内からは海を見下ろすことができ、境内(下)には外川の開祖、崎山治郎右衛門の顕彰碑があります(写真④)。階段を登った上に源俊頼の歌碑が立っています。
◇今、高神西町に鎮座している渡海神社は、昔、この大杉神社の境内辺りにありました。
津波の被害から逃れるため、より高所である現在の高神に移ったといわれています。 |
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