| 利根川河口は複雑な水流、銚子側に散在する岩礁、対岸波崎側の浅瀬があり日本三大難所の一つでした |

|

図4 飯貝根濱川口之図
円福寺所蔵絵図(江戸時代中期

図5 原子力発電環境整備機構
(2004)改変
.jpg)
図6 銚子濱磯めぐりの図(部分)に加筆
船は一ノ岩と二ノ岩の間を通る

写真5:岩石公園

写真6:千人塚

写真7:第1卸売場

写真8:第1卸売場内部(生マグロ)
2階見学者通路より写

写真9:第2卸売場(前方)

写真10:第3卸売場
|
|
1801年伊能忠敬は銚子半島を測量しています。 |
| ◇ |
上右図3は伊能図大図川口付近の図です。
茨城県側に大きな浅瀬を丸く描いています。
銚子側には多くの岩礁が描かれています。特に飯沼村飯貝根付近から目途ケ鼻付近に多く描かれています。 |
| ◇ |
左図4は江戸中期の飯貝根(川口)付近の絵図です。
多くの岩礁の間を縫うように進んで行く様子が描かれています。 |
| ◇ |
上左図2は地理院地図に伊能忠敬銚子測量の修正した測線(赤線)を加筆したものです。 両図を比較すると掘削された部分や埋め立てられた部分が分かります。 |
| ◇ |
銚子港沿革調(宮内君浦著)に見る幕末頃の川口の様子 |
| ◇ |
「対岸に常陸の洲「ナガラミ」といい、港口に向かい屈曲する暗洲は水面を抜くほど高く、まるで一長提をなす。長さは200間余もあり八手網(はちだあみ)五、六張りを晒す網干し場にして・・」とある。 |
| ◇ |
飯沼村地先岩礁:水底とても深く大船の航路で千石以上の船も容易に通航できました。荒野村より飯沼村に到る南岸河底は泥浅く北岸沿って通航したり、澪筋を通航したりと当時の苦労が記されています。澪筋に目印をつけたとも書いています。 |
| |
「 イガイネ」って何?
銚子方言:「イガイ」は大きいことを意味します。 |
◇
|
「ネ」とは「根」で岩礁のこと。根魚とは岩礁に住む魚を意味します。
「イガイネ」は大きな岩礁を指しています。 |
| ◇ |
「飯貝根」という地名は「イガイネ」の当て字と思われます。
(管理人の推測) |
| |
1971年以前の利根川河口の主な航路は?
1801年の「伊能図」、赤松宗旦の「銚子濱磯めぐり図」を参照。 |
| ◇ |
茨城県側の浅瀬や銚子側の岩礁を避け、川幅1000メートル超えの利根川河口の一之島と二之島の間(幅約100m)を主に航行していました。 |
| ◇ |
1857年赤松宗旦の利根川図志(図6)や江戸中期の絵図では浅瀬と岩礁を避けるように、一之岩と二之岩の間、50~60間の所を通った」と書いています。
図3の伊能図にも「一之島、二之島、三之島が描かれています。 |
| |

海難事故が激減したのは何が完成したから? |
| ◇ |
1911年3月1,000人以上が遭難する海難事故があり、漁民らの要請で銚子醬油合資会社の社長濱口吉兵衛が県会議員の小野田周斎と共に漁港整備を決断し、1920年国会議員となり銚子港修築案を通過させ、国の援助と私財を投じて漁港整備をしました。 |
| ◇ |
その後1968、1969年の遭難を機に緊急工事開始され1971年に
導流堤(新航路)が完成し以後遭難事故は殆んど無くなりました。 |
| ◇ |
漁港整備事業は平成時代まで継続実施され、更に現在令和9年までの予定で、大型船停泊可能な漁港整備が続いています。 |
| ◇ |
銚子漁港は第一、第二漁港が川中にある珍しい漁港です。 |
|

古銅輝石安山岩で日本海形成期の現地性として千葉県唯一
2023年3月、千葉県登録記念物 |
| ◇ |
利根川河口の銚子側に存在する岩礁は2000万年前の溶岩です。現在の銚子は火山活動がある場所から大きく離れています。 |
| ◇ |
日本列島は2500万年前ごろ大陸の縁にありました(図4の上)。その後、
大陸の淵の2本の陸地が「逆くの字」に開き日本海が形成され拡大されていきます(図4の下)。銚子はその「逆くの字」のとんがりに位置しています。 |
| ◇ |
日本海が拡大していく時代は、列島の下部では下からの対流が起こり高温となっていたと考えられていて、そのため火山活動が活発な時代でした。 |
| ◇ |
航路生涯の岩礁は:火山活動が活発な時代にマグマが噴出し冷えて固まったものです。銚子の東海岸(川口・黒生・長崎)にある岩礁です。 |
| |
写真5 |
| ◇ |
利根川河口にあった岩礁は航路の邪魔物でしたが、昭和40年代、港湾工事により除去されました。その一部が近くの岩石公園に移築整備されました。 |
| ◇ |
昭45年、新航路(手前)が完成すると海難事故は大きく減っています。
写真1の手前の水路が一の島方向から第1、,第2魚市場方面への新航路で、奥が利根川本流になります。写真③:遠方に銚子大橋が望めます。 |
| |
写真6
 |
| ◇ |
今は海難事故で亡くなった方々を祀っている場所です(写真6) 。
昔、 この高台はかがり火を焚いて灯台の役割をしていました。 |
| ◇ |
利根川河口は狭く、とりわけ銚子側は岩礁が多く、
茨城県側は砂が堆積した浅瀬でした。 更に干満の差や利根川の流れ、風や波など、銚子の河口(川口)は日本3大難所の一つといわれていました。 |
|
「 てんでんしのぎ」って何?
東北地方に「津波てんでんこ」という言葉があります。 |
| ◇ |
銚子には「銚子の川口てんでんしのぎ」という言葉があります。自分の舟は自分で守れ他人の舟には構っていられないという意味です。 |
| ◇ |
東北三陸にも「津波てんでんこ」という言葉があります。銚子の「てんでんしのぎ」と同趣旨です。銚子と東北地方には水運によるつながりが多く残っています。 |
| |
写真7、8、9、10 |
| |
銚子港は全国13港ある特定第3種漁港で、第一・第二・第三漁港からなり、更に令和9年までの予定で大型船が停泊可能な外港の整備が続いています。 |
|

銚子漁港発展の背景は何? |
| ◇ |
①銚子は太平洋に突き出た関東の東端の地で、黒潮が日本列島から離れる場所です。そのため暖かい黒潮と栄養塩に富んだ寒流「親潮」が混ざり合う混合水域の南端に当たります。この混合域は良い漁場で、さらに、太平洋に流れ出る日本最大級の利根川からも豊富な栄養が運ばれるため、魚のエサとなるプランクトンが多量に発生します。これが好漁場といわれる所以の一つです。 |
| ◇ |
②銚子漁港は首都圏に近く、冷凍冷蔵施設が充実しているので回船が多いことがあげられます。地元の船は20%程度と云われています。 |
|
銚子港:13年連続漁獲量日本一はどうなった? |
| |
銚子港は沖合漁業・沿岸漁業の根拠地で13年連続漁獲量日本一でしたが、昨年度はその座を釧路港に譲っています。温暖化・黒潮蛇行が影響しているのでしょうか。 (参考:2022年度 23万トン) |
| |
第1卸売場 写真7、8 |
| |
第1卸売場は東日本大震災で使用不可能になりました。平成27年3月 約23億円をかけて第1卸売場が完成しました。高度衛生管理型市場(密閉型)とよばれ、外部から隔離されていて、市場内部の見学は見学者通路のみとなっています。
近海生マグロ(本マグロ、メバチ、ビンチョー)、
カジキ(マカジキ、メカジキ等) |
| |
第2卸売場:写真9遠方の白い建物付近、 3卸売場:写真10
 |
| |
イワシ、サバ、サンマ、カツオを主に、タイ、ヤリイカ、メヒカリ、
ホウボウ、カレイ、アンコウ、ヒラメ、キンメなど200種。 銚子漁港には四季折々の魚が水揚げされています。写真7、8 参照 |
| |
|
 |
|


 |

地理院地図に加筆
コース例
出発:夕日が映える広場➤①一ノ鳥居➤②二ノ鳥居➤③三ノ鳥居(①~③広い参道)➤川口神社境内散策
➤③➤④➤⑤➤⑥旧西廣家住宅(公開日があります。お問い合わせ要)
➤⑦➤⑧東部不動ケ岡公園北口広場・西宮神社・急崖と湧き水・田場・⑩不動堂入口➤参道の階段を登る50段位
➤⑪広場あり➤右折し⑿見晴らし台へ(昔は松林で大変見晴らしがよかった場所だが今はタブの木が生い茂りかなり視野が狭い)
➤⑪に戻り➤⑬和田不動尊へ:周辺には石仏等多い。赤点線は概ね木道。
➤⑭➤⑮➤⑯➤⑰➤⑱➤⑲➤⑳夕日に映える広場
(日の入り時間に合わせ、強運に恵まれれば)茜色の夕日と汽笛が待ってます。
|
| |
みどころ・他 |
| 川口神社 |
広く長い参道、旧歴6月15日の大潮祭、漕出式、伝説:延命姫、吉田松陰の憂いとは?
海の幸亀の霊・鯨の霊、漁業関係者の信仰、神社からの見晴らしは? |
| 旧西廣家住宅 |
国登録有形文化財(平成30年3月27日)。主屋・缶詰工場・倉庫(北倉)・倉庫(南倉)・煉瓦塀
公開予定日があります。 問合せ先:文化財・ジオパーク室 ☎0479(21)6662\ |
| 西宮神社 |
摂津から銚子へ移住した人達の厚い信仰により現在も維持管理されています。
外川漁港・町並みを作った崎山次郎衛門も最初ここ飯貝根に住みました。 |
| 急崖と湧き水 |
湧き水はどうして出る?、田場の今は? |
| 和田不動尊 |
飯沼山円福寺の境外仏堂、入口の両サイドの池と滝は? 昔松林、今タブノキ林、見晴らしは?
東部不動ケ岡公園の中核、遊歩道は木道。 |
|
| |

写真11川口神社の長い参道

写真12:
川口神社本殿

写真13:
大潮祭殿の神輿
写真14:
松陰先生曽游の地碑
参道中腹本殿に向かっての左脇

写真15:参道浦電に向かって左奥
君浦宮内先生公徳碑

写真16:海幸亀之霊
参道中腹より本殿に向かって右脇

写真17
神社近くの水産企業による
総出の清掃作業
概ね月1回程度で実施されているという

西廣家案内板

旧西廣家煉瓦塀 |
|
| ◇ |
川口神社は漁業の守り神で、創建は寛和2年(986年)と言われています。 |
| ◇ |
川口神社の祭神は速秋津姫命と言い、アキツは別名港を指します。漁業関係者の信仰が厚く、正月5日の漕出式 は海の安全と豊漁を祈願します。
旧歴6月15日の 大潮祭りが例大祭となっています。神輿が海に向かって担ぎ降りられるよう、参道の階段は低く幅は長くし道幅も広くつくられています。
写真13:神輿は川口神社(午前6時30分頃)を出て、ウオッセ、東銀座、銚港神社、第1市場、浜通り、第2市場を経由して練り歩きます。 |
| ◇ |
参道中腹より雄大な利根川を望むことができます。 また、長い参道沿いには吉田松陰(写真11)や宮内君浦(写真12)などの大きな碑があり、反対側には海幸亀之霊、鯨之霊の碑があります(写真16)。 |
| ◇ |
銚子大漁節には川口神社も盛り込まれています。(九つとせ、この浦守川口の明神ご利益表せる、この大漁船)と。鳴り物「はね太鼓」は国内外で演奏されています。 |
| |
 |
| ◇ |
晴明のはかりごとにより晴明が死んだと悲観した延命姫は屏風ケ浦の崖から海に身を投げました。姫の歯と櫛だけが現在の銚子市川口に流れ着いたといわれています。この歯と櫛を丘に埋めて延命姫の霊を祀り「歯櫛明神(はくしみょうじん)」と称していましたが、「白紙明神」と呼ばれるようになり、明治3年に現在の「川口神社」と改称しました。歯櫛明神→白紙明神→川口神社 |
| ◇ |
この伝承から櫛や鏡を奉納して祈願すると美人になるとか、神社が頒布する「白粉」をつけるとアザが消えるといった言い伝えが今に続いています。 |
| |
写真14 |
|
 |
| ◇ |
文政13年8月4日(1830)~安政6年10月27日(1859/11/21) 長州藩の武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。私塾「松下村塾」で明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えました。
嘉永4年(1851年)藩の許可なく東北視察を敢行し御家人召放となりました |
| ◇ |
安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て失敗して入獄となりました。 |
| |

吉田松陰はいつ銚子に来た? |
| ◇ |
松陰は嘉永4年12月14日、東北地方視察の旅に出た際、銚子を訪れました。吉田松陰は水戸で藤田東湖らに会い嘉永5年1月6日潮来の宮本茶村家を訪れ宿泊しています。翌日、利根川を下り
嘉永5年1月7日船で銚子松岸へ着き宿泊、8日は銚子港等の視察をし銚子松岸に宿泊しています。 |
| |
 |
| ◇ |
川口神社を訪れた松陰はここからの眺めから地形などを読み、海防の必要性を痛感しています。 |
| ◇ |
松陰の見た銚子:戸数多く繁盛しており店間甚だ江戸のよう。
東北と常陸・江戸を結ぶ中継港として賑合う銚子港の様子を詠う一方、外国船に対し守備が弱く地の利に恃むしかないことを憂いています。松陰は銚子港と題する漢詩を作っています。 |
| |
 |
| ◇ |
商船は幾艘も連なり停泊している(松陰は銚子港を商港とみている)。春風に乗って管弦の音が聞こえ、白壁の妓楼が城郭の様(松岸の遊郭)。潮は近づいたり遠ざかったりし砕けて霧を発している(銚子は霧が発生しやすいことを認識)。 |
| ◇ |
満州族の清朝の事をそれとなく聞くが安逸を貪っていると他国に侵略されるだろう 心配症の者が要らぬ心配するのは已むを得ないのか、否そんな事はない。辺境の敵を防ぐ対策が何もなされていないではないか。
(外国に対して無防備で、のんびりしていると植民地になると心配しています) |
| |
写真15 |
| ◇ |
写真15:宮内君浦は潮来の漢学者宮本茶村の弟子で、吉川3兄弟(天浦、君浦、松浦)の次男が君浦です。新生村の神主で平田篤胤の門人であった宮内嘉長家に婿入りしました。 |
| ◇ |
君浦は漢学者であり、銚子港沿革史などを執筆しています。また、銚子市新生に守学塾を再興しました。名主として郷村経営にもあたりました。川口神社の神主も務めたといいます。大日本国語辞典の著者松井寛治は君浦の次男です。 |
|

松陰の銚子での案内役は誰? |
| ◇ |
:吉田松陰は銚子を訪れる前日、潮来の宮本茶村宅に泊まっています。君浦は茶村の弟子で茶村の双硯堂詩集に関わるなど師弟関係が深い。松陰先生の銚子での案内役として学者で銚子をよく知る君浦(写真15)を紹介したことは十分に推測できます。とすれば丸一日の短時間の調査で当時の銚子の実状を書き留めていることも納得できます。(東北遊日記に記述はありません。HP管理人の推測) |
| |
写真16 |
| ◇ |
参道右側には海幸亀之霊、鯨之霊の碑があります。とりわけ亀之霊が多い。
| 亀は漁師の守り神で大漁神とされているからでしょうか |
漁業関係者の亀に対する信仰が窺われます。 |
| |
写真17 |
| ◇ |
写真に見られるように、境内の清掃作業などを自主的に行っています。
川口神社と水産関係者の繋がりは今も深い。 |
| |
|
|
 |
| |
江戸時代末期、紀州より銚子に移り住み、2代目西廣治郎吉が漁業を初めた。
現在、銚子を代表する船主の一人。
| 国登録有形文化財(平成30年3月27日) |
 |
|
 |
主屋・缶詰工場
(倉庫側からの遠望) |
|
倉庫(北倉)・倉庫(南倉)
(母屋・工場側からの遠望) |
|
| |
|
|
 |
|
東部不動ケ岡公園の一角 |
| |
写真は西宮神社です。
1620年代から摂津国、西宮からの移民者が現れ、イワシ漁を始めます。 1650年代に当地区に移住が始まります。長崎地区にも西宮神社があります。
恵比須様が祭られており、漁業関係者の信仰を得ています。 |
| |
ここには漆喰製の鯛がみられます。 (外川漁港を開いた崎山次郎衛門も最初はここ飯貝根に住みました) |

図 :田場の急崖地層イメージ |
|
 |
| |
どうして湧き水が出る? |
| |
崖の上部(黄色)は第四紀の香取層(砂層)で滞水層です。
下部の地層(灰色)は第三紀の夫婦ヶ鼻層(シルト層)で不透水層です。
二層の境界から水が湧き出ます。
和田不動尊では、この湧き水が滝になっています。今は水量が少くなています。十数年前、訪れた時は両方が滝でした。数か月前は片方だけ、今回は両方とも止まっていいました。
上部の宅地化や排水溝の設置などが影響しているのでしょうか。 |
| |
|
|

写真18:
和田不動尊(円福寺HPより)

写真19:
安置されている不動尊 |
|
東部不動ケ岡公園の中核 |
| ◇ |
和田不動尊は飯沼山円福寺(通称飯沼観音)の境外の仏堂です。
創建は1720年と言われ、飯沼山円福寺の鬼門の位置に建立されました。
安置されている不動尊は、1720年、京都の仏師により彫られたものです。
現在の建物は1852年に再建されたものです。 |
| ◇ |
お不動様は漁業関係者の信仰篤地元(銚子対岸波崎)はもとより、東京魚河岸関係者の寄進も多くありました。 |
| ◇ |
現在の境内はタブノキ等の樹木が生い茂っていますが、当時は松の木で眺望が極めて良く、筑波山、阿武隈山系まで見ることができたと云われています。 |
| ◇ |
不動尊に上がる入口には池があり、池に架かる橋の両サイドには滝があり豊富な水が流落ちていました。今は片方だけです。 |
| ◇ |
東部不動ケ岡公園下の低地は崖からの湧き水により池があり、じめじめ感がありました。そのため一帯は田場と呼ばれていました。
(今は湧き水自体が少なくなり、排水溝に流れる様になっています) |
| |
|
|